リフシッツの「ゴルトベルク変奏曲」━━東条碩夫
コンスタンチン・リフシッツが、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』を弾いてくれる。
1976年12月ウクライナ生れのリフシッツは、これまで何度も来日し、その広いレパートリーを披露しながら、バッハの作品も数多く弾いているが、この『ゴルトベルク変奏曲』こそは、彼にとって特別な意味を持つ作品なのである。
古い話になるが、1992年のクリスマスの頃、モスクワとサンクトペテルブルクへ取材に行った私は、モスクワの有名なグネーシン音楽学校の教室で、名教師タチヤーナ・ゼリクマン女史から、1人の少年を紹介された。
うつむき加減におずおずと入って来たその神経質そうな少年は、恥ずかしそうに私に挨拶すると、「スクリャービンとショパンを弾きます」とボソリと言って演奏を始めたのだが、━━瞬間、私は思わず腰を浮かしそうになり、彼を凝視した。その演奏は信じられぬほど神秘的で、深みのあるものだったのである。これは大変な少年が現われたものだ、と私は驚愕した。次いでインタヴュ―に入ったのだが、何を訊いても彼は「はあ」とか「ええ」とか答えるばかり。仕方なく、「1日何時間練習を?」と愚にもつかぬ質問をすれば、「数えたことありません」とボソッと答える。
しかし、あとから思えば、これは実は彼のユーモアだったのかもしれない。その後の彼は、質問を冗談ではぐらかすという点では、人後に落ちぬ名手になったらしいのだ。
そのコンスタンチン少年が1年半後(1994年6月)、グネーシン学校の卒業記念リサイタルで弾いて聴衆を驚嘆させ、直ちにモスクワ音楽院小ホールでレコーディングし、そのCDも米国のグラミー賞にノミネートされるほど絶賛された演奏が、ほかならぬ『ゴルトベルク変奏曲』だったのである。そのCDは今でも手に入るが、17歳の少年とは思えぬ精神性の豊かさを感じさせる演奏だった。それゆえこれは、リフシッツが初めて世界にその名を轟かせた、ゆかりの曲なのである。
リフシッツは、今や押しも押されもせぬ大演奏家になっている。近年の彼の演奏は変幻自在、振幅の激しいものになり、大音響で音楽のエネルギーを解放して聴かせることも多くなった。たとえば樫本大進(ベルリン・フィルのコンサートマスター)と協演したベートーヴェンの『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』などで、時には低音部の轟きに凄味を利かせ、前面に躍り出るかと思えば、次の瞬間にはヴァイオリンの陰に身を潜めるような表情に変わる、といった具合に、精妙かつ豪快なうねりに富む演奏を聴かせてくれたこともあるのだ。
その彼が、「びわ湖クラシック音楽祭」で、『ゴルトベルク変奏曲』を弾く━━。
東条碩夫〔音楽評論〕